小学生のころ、私は国語が得意ではありませんでした。(というか、勉強全般ダメでした(笑))
なんとなく苦手意識があり、どこか距離を置いていた教科でもあります。
転機は、中学生になって純文学を読み始めた頃でした。
言葉の裏にある感情や、行間に漂う余韻に触れたとき、
「読む」という行為の奥深さに、はじめて気づきました。
それから年月が過ぎ、
SNSが当たり前になった今、私はあらためて
「国語を学ぶ意味」について考えるようになりました。
毎日、膨大な数の投稿が流れ、
そこに無数のコメントが重なっていきます。
その中で時折目にするのは、
想像力の欠如した言葉、
相手の気持ちを汲み取れない反応、
文脈を無視した断片的な解釈。
そして、見ず知らずの他者への攻撃です。
自分には関係のない投稿であっても、
心がざわつくことがあります。
そのたびに思うのです。
国語は、テストのための教科ではなかったのだと。
国語の本質は、「読み取る力」にあります。
書いてあることを正確に理解する力。
書いていないことを推測する力。
書き手の意図や立場、感情を察する力。
言葉の背景や構造を見抜く力。
それは単なる読解ではありません。
思考そのものを鍛える訓練です。
文章を正確に読み取れなければ、
誤解や対立、不要な摩擦が生まれます。
読解力は、自分を守る力でもあるのです。
文章は、他者の思考の痕跡です。
なぜこの言葉を選んだのか。
なぜこの順番で書いたのか。
何を伝え、何をあえて書かなかったのか。
そう問い続ける習慣は、
対話力や傾聴力、そして共感力へとつながっていきます。
そして、読める人は、やがて書けるようになります。
文章構造を理解できる人は、
自分の考えを筋道立てて話し、
感情を整理し、
伝わる言葉を選ぶことができるようになる。
国語とは、
自分の内側を整えるための訓練でもあるのです。
とくに大切なのは、“行間”を読む力だと思います。
書かれていないことを想像する。
なぜここで例を出したのか。
なぜこの表現なのか。
行間を読むことで、
文章は平面から立体へと変わります。
それは、物事を多角的に見る力と同じです。
理科や数学が「答え」に向かう学問だとすれば、
国語は「どう考えるか」を学ぶ学問。
主張と根拠。
対比。
因果関係。
要約。
抽象と具体。
これらは、人生のあらゆる場面で使う思考技術です。
私は国語が得意な子どもではありませんでした。
けれど、本を読むことだけは好きでした。
小説も、哲学書も、ジャンルにこだわらず夢中で読み続けてきました。
いま自分の子どもを見ていると、ふと思うのです。
もしかすると今の子どもたちは、
私たちの頃よりも本に触れる機会が少ないのかもしれない、と。
動画は、考えなくても自然と情報が流れ込んできます。
楽に理解できるのは、ある意味で当然のことなのでしょう。
だからこそ、「読む」という時間を、
意識して選ぶ必要があるのではないかと思うのです。
読むという行為は、能動的な営みです。
想像し、補い、考え、解釈する。
SNSが発達した今だからこそ、
本を読むという静かな時間が、
私たちの思考を深くしてくれるのではないでしょうか。
国語を学ぶ意味とは、
人生を誤読しないための訓練。
それは、
他者を傷つけないための訓練であり、
自分の心を守るための訓練でもあると思います。
発信をする側も受け取るほうも「相手がいる」という事を忘れてはいけないのです。
コメント