何かに追われているとき、私はつい「何を足すべきか」ばかりを考えてしまう。
もっとこなさなければ、とか、もっと知識を入れなければ、とか。
けれど、頭の中が騒がしいときに何かを詰め込んでも、濁った水に絵の具を落とすようなものかもしれない、と最近は思う。
中国の古い書物『書経』に、「五事(ごじ)」という考え方がある。
貌(ぼう)、言(げん)、視(し)、聴(ちょう)、思(し)。
自分のありようを整え、言葉を吟味し、見つめ、耳を澄まし、最後に考える。
ただそれだけの順番なのだけれど、年を重ねるにつれて、この並びにはどこか抗いがたい理屈があるような気がしてくる。
最初は「貌」。
顔の造作や装いのことではなくて、立ち姿や歩く速度、ふとした視線の落とし方のようなものだろうか。
人は思っている以上に、外側の佇まいでその人の「今」を語ってしまうものだと私は考える。どんなに筋の通ったことを話していても、指先が落ち着いていないと、どこか違和感が残る。
自分を立て直したいとき、大げさな決意なんていらないのかもしれない。
椅子の背もたれからすっと背を離してみたり、脱いだ靴の向きを直してみたり。そんな些細なことで、散らかった内側が少しだけ静まるような気がしている。
次が「言」。
苛立ちや、誰かへの当てつけ。吐き出した言葉を最初に浴びるのは、自分自身なのだと思う。
無理に前向きな言葉を並べる必要はないけれど、口を開く前にほんの少し間を置く。
「これは、今ここで発するに値する言葉だろうか」と。
そのくらいの問いを持つだけで、無駄な摩擦は減らせるのではないかと私は思っている。
言葉が鎮まると、ようやく「視る」ことができる気がする。
私は普段、驚くほど見たいものしか見ていないのかもしれない。「この人はこういうタイプだ」とラベルを貼った時点で、本当の観察は止まってしまう。
目の前の輪郭だけでなく、その奥の影や背景まで含めて見る。相手のことも、自分の感情も、感情的にならずにただの事実として視界に置いてみる。それが「視る」ということなのだと私は考える。
そして「聴く」。
他人の話を聞きながら、頭のどこかで反論や自分のエピソードを準備してしまうことが私にもある。それは聴いているというより、ただ順番待ちをしているだけなのかもしれない。
自分の意見をいったん脇に置いて、ただの音として相手の言葉を受け止める。余計なフィルターを外したほうが、物事は案外、シンプルに見えてくるような気がする。
そうして外側を一通り受け止めたあとに、ようやく「思」がやってくる。
見ることも聴くことも飛ばして、最初から「考える」ことばかり急ぐから、思考が独りよがりになってしまうのではないだろうか。
誰かの正解を借りてくるのは簡単だけれど、十分に見て、十分に聴いたあとに残る、
「で、私はどう考えるのか」
という静かな問いだけが、頼りになるのだと私は思う。
姿勢を戻す。
余計な言葉を減らす。
色眼鏡を外して見る。
ただ聴く。
そして、最後に考える。
生き方を劇的に変える必要なんてなくて、少し雑になった手元を順番通りに手入れしていくだけでいい。
今のところ、私はそんなふうに考えている。
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