東京都五反田の女性専用SATO針灸院

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東洋医学

なぜ、私はあんな経験をしたのだろう

――母の人生、家族の記憶、そして「宿命」という問い

母が、もう長くない。

全身にがんが転移し、命の終わりが近づいている。

そう聞いてから、私はこれまでの人生を、何度も振り返るようになった。

母のこと。

父のこと。

子どもの頃の家庭のこと。

そして、

「私は、なぜこんな家庭に生まれたのだろう」

という、ずっと心の奥に残っていた問い。

家族というものが、少しずつ離れていった

私が小学校2年生のとき、両親は離婚した。

父から母、私や妹へのDVがあり、幼い私にとって、家庭は決して安心できる場所ではなかった。

母自身も、私たち子どもに十分に向き合える状態ではなかったのだと思う。

その後、母は新しいパートナーと人生を歩み、今は神戸のほうで暮らしている。

そして、私が中学1年生のとき。

父は、借金を抱えて突然、蒸発した。

その後、父には別の家庭があるらしいということはわかっている。

けれど、今どこで暮らしているのか。

元気なのか。

病気なのか。

生きているのか、亡くなっているのか。

私は知らない。

「父は亡くなった」と知らされているわけでもない。

だからといって、今も普通に会える父親がいるわけでもない。

ただ、長い年月の中で、父という存在は私の人生から静かに遠ざかっていった。

母も父も、私の人生には確かに存在していた。

けれど二人は、それぞれ別の人生へと進んでいった。

そして私は、その間に残されたような感覚を持っていた時期もあった。

子どもの頃には、それがどういうことなのか理解できなかった。

ただ、

「どうして、うちはこんななんだろう」

と思っていた。

「こんな人生、嫌だ」と思っていた

子どもにとって家庭は、本来なら安心して帰る場所なのだと思う。

けれど、そうではない家庭もある。

暴力がある。

大人の事情に巻き込まれる。

親がいなくなる。

愛情を十分に受け取れない。

そんな環境の中で育った子どもは、ときに、

「こんな人生、嫌だ」

と思う。

私自身も、何度そう思ったかわからない。

それでも私は、命を落とすことなく、大人になった。

そして今、こうして鍼灸や東洋医学を学び、人の身体に向き合い、さらに算命学を学んでいる。

だから最近、ときどき思う。

「私は、なぜあんな経験をしたのだろう」

前世のカルマという考え方

算命学や東洋思想を学んでいると、「前世」という考え方に出会うことがある。

前世で何をしていたのか。

どんな因縁を持って生まれてきたのか。

今世では何を学び、何を求めているのか。

そうしたものが、生まれ持った宿命の中に何らかの形で表れている、と考える人もいる。

「カルマ」という言葉もある。

原因と結果。

自分が行ったことが、巡り巡って結果を生むという考え方だ。

けれど、私はここで、とても大切なことを忘れたくない。

苦しい環境で育った人に、
「それは前世のカルマだから」と言ってはいけない。

少なくとも、私はそう思う。

子どもが暴力を受けることも、

ネグレクトされることも、

親の問題に巻き込まれることも、

その子が前世で悪いことをしたからではない。

それは、その子の責任ではない。

苦しかったものは、苦しかった。

傷ついたものは、傷ついた。

前世でやり残したこと、今世で経験したいことを選んできていると言われているが、

世の中の様々な事件や自身の経験を踏まえてもそうなのかはわからない。

残虐な事件を起こした加害者が来世でどう生きれるのかもわからない。

わかる人もいるのかもしれないがその方の頭の中やみえていることは私にはわからない。

だから、

そこを無理に「意味のある経験だった」と美しく塗り替える必要はないと思う。

それでも、人は「意味」を探してしまう

では、前世やカルマという考え方には意味がないのだろうか。

私は、そうとも思わない。

ただ、

「なぜ、こんなことが起きたのか」という原因を説明するためではなく、
「この人生を、私はどう受け止めて生きていくのか」を考えるための物語。

そんなふうに捉えてみてもいいのではないかと思っている。

人間は、どうしても意味を探す生き物だから。

「あれは、ただの不幸だった」

と考えることもできる。

一方で、

「あの経験があったからこそ、私は人の痛みに気づけるようになった」

と、自分の人生の中に置き直すこともできる。

もちろん、

「苦しい経験に感謝しましょう」

という話ではない。

そんな簡単なことではない。

ただ、

過去にどんな意味を与えるかという選択は、今を生きている自分に残されている。

私は、そう思うようになった。

東洋医学には「巡る」という思想がある

東洋医学を学んでいると、「巡る」という言葉に何度も出会う。

気が巡る。

血が巡る。

水が巡る。

季節が巡る。

陰と陽が入れ替わる。

そして、人の人生もまた、

生まれ、

育ち、

盛んになり、

衰え、

そして終わっていく。

東洋思想では、物事を「固定されたもの」として見るよりも、変化し続けるものとして捉える。

身体もそう。

感情もそう。

人生もそうなのだと思う。

幼い頃に受け取ったもの。

自分の中に残った傷。

そこから生まれた感情。

そして、大人になってからの選択。

それらは、まるで水の流れのように、次の出来事へとつながっていく。

だから私は、

人生にも「巡り」があるのではないか

と思うようになった。

算命学は、人生の「答え」ではなく「地図」なのかもしれない

算命学では、生まれ持ったものを「宿命」として捉える。

宿命と運命は、同じものではない。

宿命は、生まれ持ったもの。

運命は、その宿命を持って、人生の中でどう生きるか。

私は算命学を学びながら、

「宿命は、人生の答えではなく、自分を知るための地図なのかもしれない」

と思うようになった。

地図に山が描いてあったとしても、必ずその山を越えなければならないわけではない。

遠回りすることもできる。

休むこともできる。

別の道を選ぶこともできる。

宿命を知ることは、

「あなたの人生はこうなる」

と決めつけることではなく、

「あなたには、こういう傾向や可能性がある」

と、自分自身を理解するための一つの視点なのではないだろうか。

「あの家に生まれた意味」は、今の私が決めていい

子どもの頃の私は、家庭を選べなかった。

親も選べなかった。

起きてしまう出来事を止める力もなかった。

だから、あの頃の私に、

「あなたには、この経験が必要だったんだよ」

とは言いたくない。

必要だったわけではない。

ただ、起きてしまった。

そして私は、その中で生きてきた。

それだけでもいい。

でも、大人になった今なら、自分で意味を選ぶことができる。

鍼灸を学んだこと。

東洋医学を学んだこと。

人の身体に触れる仕事を選んだこと。

算命学を学び始めたこと。

人の人生に興味を持つようになったこと。

人が抱えている痛みに、以前より敏感になったこと。

振り返ってみると、

「もしかしたら私は、自分の人生を理解するために、ずっと人間というものを学んできたのかもしれない」

と思うことがある。

それが前世から続いているものなのか。

それとも、この人生の中で生まれたものなのか。

本当のところは、誰にもわからない。

カルマを「罰」ではなく、「連鎖」と考えてみる

私は、カルマを

「前世で悪いことをしたから、今世で罰を受ける」

というものとしては考えたくない。

むしろ、

「自分が受け取ったものが、自分の中でどう次へ渡っていくのか」

という視点で考えてみたい。

暴力を受けた人が、必ず暴力を繰り返すわけではない。

愛されなかった人が、愛せない人になるわけでもない。

「私は同じことを繰り返さない」

と決める人もいる。

そこで連鎖が止まる。

もしカルマというものがあるのだとしたら、

それは「罰」ではなく、

自分の代で終わらせることのできる何か

なのかもしれない。

親から受け取ったものを、すべて次の世代へ渡す必要はない。

自分のところで、

「ここから先は、私が選ぶ」

と言うこともできる。

それもまた、人間が持つ自由なのだと思う。

そして、母の人生をどう見るのか

母もまた、一人の人間だった。

私にとっては「母」だけれど、

母にも母の人生があり、

母が子どもだった時代があり、

母自身が抱えていたものがあり、

母には母の宿命と人生があった。

だからといって、私が受けた傷が消えるわけではない。

許さなければならないわけでもない。

すべてを理解しなければならないわけでもない。

ただ、母の人生を一人の人間の人生として眺められるようになったとき、

少しだけ、

「母もまた、この人生を生きていたんだな」

と思えるようになった。

そして今、その人生が終わろうとしている。

人生の答えは、最後までわからない

前世が本当にあるのか。

カルマが本当に存在するのか。

算命学に表れる宿命が、どこまで人生を決めているのか。

それは、私にはわからない。

きっと誰にも、完全にはわからない。

だから私は、

「すべてには意味がある」

とも言い切らない。

人生には、意味のわからないことがたくさんある。

理不尽なこともある。

取り返せないこともある。

それでも人は生きながら、

「なぜ?」

と問い続ける。

そしていつか、

自分なりの答えを見つけていく。

それが人生なのかもしれない。

母の命が終わろうとしている今、

私は「なぜ?」という問いを持っている。

なぜ、あの家庭だったのか。

なぜ、あんな経験をしたのか。

なぜ母は、あんな人生を生きたのか。

なぜ父は、私たちのもとを去ったのか。

なぜ、私はこの家に生まれたのか。

答えは、たぶん出ない。

けれど今の私は、少しだけ思う。

「あの経験があったから、私は人の痛みに気づく人間になったのかもしれない」と。

それは、過去の苦しみを肯定することではない。

「あの経験が必要だった」と言うことでもない。

ただ、

あの頃に傷ついた小さな自分を、

今の自分が抱きしめてあげる。

そして、

「よく生きてきたね」

と伝える。

それでいいのかもしれない。

東洋医学でいう「巡り」は、何も身体だけの話ではないのだと思う。

親から子へ。

過去から未来へ。

悲しみから慈しみへ。

そして、一つの人生から、次の人生へ。

私たちは、何かを受け取りながら生きている。

けれど、受け取ったものを、そのまま次へ渡さなくてもいい。

自分のところで立ち止まって、

「ここから先は、私が選ぶ」

と言うこともできる。

もし、それをカルマと呼ぶのなら。

私はカルマを、

「罰」ではなく、受け取ったものをどう次へつなぐかという、人生の問い

として、これからも考えていきたい。

そして母の人生が終わろうとしている今、

私自身もまた、

自分の人生を、もう一度見つめ直している。

もしかすると人生とは、

「なぜ、この人生だったのか」

という問いに答えを出すことではなく、

「この人生を、これからどう生きるのか」

を、自分自身で選び続けることなのかもしれない。

そう思うと、私のこれまでの人生も、まだ終わってはいない。

母から受け取ったもの。

父から受け取ったもの。

幼い私が抱えた悲しみ。

そこから生まれた強さ。

そして、今ここで学んでいる東洋医学や算命学。

それらすべてを抱えて、

私はこれからも、自分の人生を歩いていく。

過去を変えることはできない。

でも、

過去から何を受け取り、何を手放し、何を未来へ渡すのかは、自分で選ぶことができる。

それが、私にとっての「巡り」なのかもしれない。

佐藤香織|鍼灸師

2008年より施術の世界へ。

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